「武蔵野」より 
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自分が一度犬をつれ、近処の林を訪い、切株に腰をかけて書を読んで居ると、
突然林の奥で物の落ちたような音がした。
足もとに臥て居た犬が耳を立ててきっとその方を見詰めた。それぎりで有った。
多分栗が落ちたのであろう、武蔵野には栗樹も随分多いから。
若しそれ時雨の音に至てはこれほど幽寂のものはない。山家の時雨は我国でも和歌の題にまで
なって居るが、広い、広い、野末から野末へと林を越え、杜を越え、田を横ぎり、又た林を越えて、
しのびやかに通り過く時雨の音の如何にも幽かで、又た鷹揚な趣きがあって、優しく懐しいのは、
実に武蔵野の時雨の特色であろう。
自分が嘗て北海道の深林で時雨に逢た事がある、これは又た人跡絶無の大森林であるから
その趣は更に深いが、その代り、武蔵野の時雨の更に人なつかしく、ささやくが如き趣はない。
秋の中ごろから冬の初、試みに中野あたり、或は渋谷、世田ヶ谷、又は小金井の奥の林を訪うて、
暫く座て散歩の疲を休めて見よ。これらの物音、忽ち起り、忽ち止み、次第に近づき、次第に遠ざかり、
頭上の木の葉風なきに落ちて微かな音をし、それも止んだ時、自然の静蕭を感じ、永遠の呼吸
身に迫るを覚ゆるであろう。武蔵野の冬の夜更て星斗らんかんたる時、星をも吹き落しそうな野分が
すさまじく林をわたる音を、自分は屡々日記に書いた。
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林に座って居て日の光の尤も美しさを感ずるのは、春の末より夏の初であるが、
・・・。その次は黄葉の季節である。半ば黄ろく半ば緑な林の中に歩いて居ると、
澄みわたった大空が梢々の隙間からのぞかれて日の光は風に動く葉末々々に砕け、
その美しさ言いつくされず。
日光とか碓氷とか、天下の名所は兎も角、武蔵野の様な広い平原の林が隈なく染まって、
日の西に傾くと共に一面の火花を放つというも特異の美観ではあるまいか。
若し高きに登て一目にこの大観を占めることが出来るならこの上もないこと、よしそれが出来難いにせよ、
平原の景の単調なるだけに、人をしてその一部を見て全部の広い、殆ど限りない光景を想像さする者である。
その想像に動かされつつ夕照に向て黄葉の中を歩けるだけ歩くことがどんなに面白かろう。
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